キノの旅 the Beautiful World XXI
「鍵の国」―the Key of Tomorrow―

著者:時雨沢恵一

 広々とした夏の草原を、一台の車が走っていました。

 それは黄色くて小さくてぼろぼろで、今にも壊れそうですが壊れませんでした。

 人の腰ほどまで伸びた緑の草の大地、その中には車一台分の道があって、まっすぐに北へと延びていました。遠くには、地平線と空しか見えません。

 道は、コンクリートで舗装されていました。黒ずんだ色から、とてもとても長い年月が経っていることは分かりましたが、それでもしっかりと残っています。ひび割れ一つありません。

 車は、昼の太陽を真後ろから受けながら進みます。

 空は綺麗に晴れて、綿飴のような雲があちらこちらで浮かんでいました。風は弱いですが、元々湿度が高くない夏なので、その空気は人間にとってとてもすがすがしく――、

「あー……、眠い……」

 ハンドルを握るのは、ハンサムで少し背の低い男です。シャツ姿の男は、何度か眠いと唸りながらショボショボした目を瞬きました。

「…………」

 左側の助手席に座る黒髪で妙齢の女性は、思いっきり寝ていました。開いた窓から入る風と、ユッタリとした車の揺れが心地よさそうです。

「師匠、さすがに運転代わりません?」

 男が言いました。返事はありません。

「俺にも昼寝の権利が。特にこんな日には」

 返事はありません。

「止まってもいいですよね?」

 返事はありません。男は車を止めませんでした。

「ワザと乱暴運転しちゃったりしてさー」

 返事はありません。男は安全運転を続けました。

「寝ている間に、うっちゃ――」

 撃っちゃうぞ? と、冗談で、あくまで冗談で言いかけたその瞬間、冷たいものが左の首筋に突きつけられていました。

「うひっ!」

 ハンドルが少し震えて、車がわずかに蛇行しました。

 男が恐る恐る視線を左に向けると、女性が起きていて、リヴォルバー・タイプのハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器です。この場合は拳銃です)を左手で持って、自分に突きつけていました。

「おや、失礼。殺気を感じたもので。あなたでしたか」

 女性はサラリと言うと、パースエイダーを膝の上に置いたホルスターに戻しました。元々は右腿についていたものですが、車内では邪魔になるのでずらしています。

「うひい……。相変わらず、素早い動きで……」

「寝起きですので、いつもより遅れましたが」

「さいですかー。さて、よく眠れましたか……? 師匠」

「ええ、おかげさまで。そちらは?」

「今ので気持ちよーく目がさえました!」

「では、運転を代わる必要はないですね。そのまま続けなさい」

「はい、仰せの通りにー!」

 小さくて黄色い車は、緑の草原を走り続けました。

 走っても走っても景色は全く変わらず、目指す城壁が見えてきたのは、その日の夕方になってからでした。


 草原の中に、高い城壁がそびえていました。

 二人の旅人は入国の許可を求め、そしてすんなりと下りました。

 国内に見えるのは、畑と、牧草地と、植林された森と、木でできた家々と、大きな泉と。

 広い国土を贅沢に使いながら、のんびりと人々は生きていました。

 科学技術の発展はほとんどなく、およそ機械というものがない国です。金属といえば、農耕具と調理器具くらいです。

 住人は、総勢で千人を少し超えるほど。薄着で、装飾の少ないシンプルな服装をしていました。

 とても久しぶりにやって来た旅人は、猛烈に歓迎されました。その日の夜、国を挙げてのお祭りまで開いてくれました。

 そこで、旅人の女性と男は気付きました。住人達が全員、首から鍵を提げていることに。

 それはくすんでいますが銀色の金属製の鍵で、やや大きめでした。先端部分には歯がなく、小さな窪みだけがいくつもありました。

 鍵は、紐で首から提げられています。時々服の胸元から飛び出しては、住人達が戻しています。

 機械のない国での鍵を見て、師匠と呼ばれた旅人の女性が、それはなんですか? と訊ねました。

 分かりません、と答えが返ってきました。


          *     *     *


「分からないってどういうことさ? キノ」

「いやもう、そのまんまの意味だよ、エルメス」

 草原を、一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が走っていた。

 後輪の左右と上に旅荷物を積んだモトラドで、さらに予備の燃料缶を、鞄の上に積み上げている。

 運転しているのは若い人間だった。十代中頃。黒いジャケットを着て、腰を太いベルトで締めている。鍔と耳を覆うたれのついた帽子をかぶり、ゴーグルを装着していた。

 夏の草原に延びるコンクリートの道を、モトラドは北へと走っていた。朝の太陽が、右側からモトラドと運転手を、そして世界を暖めていた。

 キノと呼ばれた運転手が、走らせながら言葉を続ける。

「師匠の話の続き――。鍵は、その国の大昔からのしきたりだった。一人一つを保持して、亡くなると子供達孫達に託される。余ったら国が保管して、足りない家庭に配る。でも、その住人達も、自分達がなぜ鍵をそんなにも大切にしているのか分かっていないんだって」

「ふーん」

 エルメスと呼ばれたモトラドはそう返事をしてから、

「お師匠さんの言葉の通りなら、それは“ディンプルキー”ってヤツだね」

「でぃんぷる……? 何かの言い間違い?」

「違うよ! ディンプルキーっていう、普通の鍵よりさらに複製が難しいタイプ。製作には、それなりに高度な技術が必要だよ」

「へえ」

「で、その鍵を大切に持っている住人は、一体全体何に使ってるの? 鍵なんだから、何かを守るために使っているんだよね?」

「師匠はこう言っていた。“彼等は一日に一回、国の中心に来て、そこにある石版に鍵を差し込んでは、捻っていました”」

「で? で?」

「お終い」

「はいいっ?」

 エルメスが素っ頓狂な声を上げて、

「まあそう思うよね。ボクも聞いた時、似たような言葉を漏らした思い出がある。その話のオチはどこなのかと」

「何も起きなかったの?」

「何も起きなかったんだ。べつに、その石版が光ったり唸ったり――」

「国中が爆発したりしなかった?」

「しなかった。って師匠も無事じゃすまないよそれだと」

「いや、あの人は大丈夫」

「あ、そうかも」

 キノがそう言ってから黙ったので、しばらくはエルメスの排気音だけが草原に生まれ、流れ、そして消えていった。

「うん、で?」

「ああ。だから、師匠にとっても謎のまま終わってしまった訪問だった。後で周囲の国で色々聞いたけど、やっぱり何も分からなかった」

「うーん、ミステリー」

「そして今、ボク達はまさにその国に向かっている」

「やたら遠い国に往復で行こうって理由はそれかあ。うん、納得。まあ、舗装が素晴らしいから楽ちんだけどね」

「そして、エルメスがいてくれないと困るんだよ」

「おや? なんで?」

「石版の碑文を読んで解読して欲しいから」

「碑文で既に“石に彫った文”って意味だから、“石版の碑文”は“頭痛が痛い新聞紙の紙”だよ、キノ。“読んで解読”は、ギリギリセーフかなあ」

「まあ……、それはさておくよ。その碑文の文字が、師匠には全く分からなかった。もちろん、国の人にも分からないままだった。鍵のことは、伝統的に続けていただけらしい」

「ふむふむ」

「でも、エルメスなら分かるかもしれない。前にも、ほとんど消えかけていた古い文字を読んでくれたことがあったでしょ?」

「ずいぶん昔のことじゃん」

「でも、ボクもその国の人達も助かったよ。あれ、なんでできたの?」

「強いて言うのなら、モトラドだから」

「他には?」

「モトラドだから、かな」

「…………。まあいいや。だから今回も、エルメスのおかげで長年の謎が解けるのかもしれない」

「なるほどー。でも、お師匠さんが訪れてからもうどんだけ経ってるの? 謎はとっくに解明されているかもしれないよ? そして、それが超つまんない理由だったから、みんな鍵を捻るのを止めているかも」

 エルメスの問いに、キノは蒼い空を見上げながら答える。

「その時は――」

「“その時?”」

「いや。“がっかり”」



 翌日の朝、キノとエルメスはその国に入国した。

 城壁は聞いた場所に聞いたまま存在していて、その中では人々が、今も同じ生活を続けていた。

 久しぶりの旅人だと歓迎されて、また国を挙げてのお祭りが昼から始まって――、

「キノ」

「うん、気付いてるよ、エルメス……」

 そして、住人達の胸に鍵はなかった。


「ああ、鍵ですか! 懐かしいですねえ!」

 質問に答えてくれたのは、“長老”の立場にある老人男性だった。七十歳は超えていそうな外見だったが、実に矍鑠としていた。

「残念ですけど、私はその二人組の旅人さんのことは、覚えていませんねえ……。旅人さんは珍しいので、絶対に忘れないんですが……」

 老人が言うと、キノは首を横に振って、

「それはいいのですけど、その人に聞いた鍵の話が気になっていまして」

「そうそう。だからキノはわざわざ来たんだよ!」

「そうですか。では、説明をしないといけませんね。――実は、もうけっこう前から、全員で鍵を捻るのは止めているんですよ」

「やはり」

「やっぱり」

「それは、昔は皆が鍵を大切に扱って、毎日必ず石版に差し込んで捻っていました。しかしそのうちに、ぽつりぽつりとサボる人が出てきました。しかし、だからといって何が起きるでもありません。そうなると、やる人はどんどん減っていってしまいました。その時間を、農作業や休息に、あるいは余暇に充てる方が合理的だからです。鍵を子孫に託す人も減り、今では一緒に埋葬することすらあります」

「なるほど……」

「まあ、伝統は少しずつ変わっていくもんだよね」

「少し前までは、頑なに続けろとうるさい人がいましたが、その方ももう亡くなりました。今はもう、毎日欠かさずにやっているのは、その方のご家族だけですね」

「そうですか……」

「一家で伝統を引き継ぐ、的なアレね。たぶん故人に厳しく言われたんだろうなあ」

「ただ、時々、思い出したように、昔を懐かしむように行う人がちらほらといます。年に数度の祝日だけ行う人や、自分の誕生日に行う人、結婚式に二人で行う人もいますね」

「伝統から来た儀式になっているんですね」

「ふむふむ。納得」

「もちろん石版は今もありますよ。ご覧になりますか?」


 キノとエルメスが案内されたのは国の中心部で、そこだけはコンクリートの舗装がされていた。

 分厚いコンクリートが平らに広がる円の中心に、目指す石版はあった。

 それは横に長い立方体だった。高さは人の背丈ほど。横幅は、大型トラック一台分ほど。厚みは、人の頭ほど。

 薄く緑が混ざった灰色という、およそ他にあまり見ない色だった。表面はなだらかだが、光沢が一切ない。昼の太陽に明るく照らされているが、全く輝くことはない。

 石版はコンクリートの中に埋め込まれるように立っていて、

「うん凄い。垂直も水平も完璧。わずかの狂いもないよ」

 エルメスがそう言って、褒めた。

「どうぞお近くで。触っても構いません」

 老人が言った。

 沢山の住人達が遠巻きに、そしてざわざわと楽しそうに見守る前で、キノはエルメスを押しながら近づいて、直前で止めた。

 石版に素手で触れると、ひんやりとした感触が伝わってきて、

「金属に思えるね、どう思う? エルメス」

「まあそうかもしれないし、そうでないかもしれないし。分かんない」

「エルメスが分からないのなら、誰にも分からない、か……」

「いやいやそんな買いかぶりを」

 キノの胸の高さには、小さな鍵穴が開いていた。人間の肩幅ほどの等間隔で、いくつも続く。鍵穴の周囲、つまり回転する部分は、じっと目をこらすとどうにか見えるほど薄かった。

「では、ご覧に入れましょう」

 老人が、自分の鍵を胸元から取り出した。それは来る途中に家に寄って持ってきた彼の鍵で、師匠が言った通りの形状をしていた。

「別にどこでもいいのですが――」

 老人が彼の鍵を穴の一つに差し込んで、それは音もなく根本まで収まった。右へ捻ると、緩やかに回って、九十度回しきった時に初めて、カキンと小気味よい音がした。

 老人が左に回して鍵を戻し、そして再び音もなく抜いた。師匠が言った通り、それ以外のことは、何も起こらなかった。

「いやあ、私も、久しぶりに回しました。毎日やっていた頃が懐かしいですね。これからしばらく、家から鍵を持ち出して回すのが流行るかもしれません」

 老人が楽しそうに言った。キノが訊ねる。

「碑文があると聞きました。どこでしょう?」

「ああ、裏側ですね。こちらにどうぞ」

 老人に案内され、キノはエルメスを押しながら反対側へと向かった。

 反対側も、全く同じように見えた。裏表の区別があるのかも不明だった。しかし老人は、左右としても、上下としても中央付近を指さして、

「ここに、小さく彫られています。どうぞ近寄ってご覧ください」

 キノが礼を言って、帽子を脱いで顔を近づけた。鼻がぶつかるのではないかと思えるほど顔を近づけて、その文字がようやく分かった。

 薄く、本当に薄く彫られた線が、のたうち回っていた。文字だと思って見ればどうにか文字らしく見えるだけで、知らなければ、ただの模様にも見えた。

 それが迷路のように描かれていて、

「これは……。正直分かりません……」

 キノは早々に諦めて、

「そうでしょうそうでしょう。読める者など、今まで誰もおりませんでした」

 老人はどこか誇らしげで、そして楽しそうだった。

「エルメス、頼んだ」

「えー、無理かもよー」

 キノがどいて、エルメスをその前へと押し出す。

 キノが、そして老人が、さらに周りの人達が、文字通り固唾を飲んで見守る。

 それまでの喧噪が嘘のように静まりかえって、時折風が通り抜ける音だけが聞こえた。

 やがて、

「うーん、無理っ!」

 エルメスが甲高い声を上げて、群衆が爆笑した。



 入国三日目の朝、キノとエルメスは、大勢の国民に見送られて、城門をくぐった。

 再び草原を走り出して、走りやすい道を南へと向かう。この日も、天気は良かった。

 減って空になった燃料缶はその国に渡して、お礼にと大量の保存食料をもらい受けて、布に包んで積み込んでいた。

「楽しかった。頑張って来たかいはあったよ。あと、しばらく食べ物には困らない」

 キノがゴーグルの下で目を細めて、

「まあ、面白いものは見れた」

 エルメスもそう答えた。

 キノが一度振り返ると、城壁が緑の地平線の下に消えていくところだった。

 キノは前へ向き直って、そしてアクセルを少し開けた。

 草原の道で排気音が生まれて、流れて、そして空に消えていった。

「ねえエルメス」

 キノが、走りながらぽつりと聞いた。城壁が完全に見えなくなった直後だった。

「なーに?」

 エルメスが、走りながら返した。

「本当は……、読めたんじゃない?」

「どうしてそう思う?」

「ボクの知っているエルメスは、あんなに大げさに、ワザと全員に聞かせるように“できない”って言わない気がしたから」

「あの時あの場所にいたのは、キノの知らないエルメスかも?」

「いや、ボクの知っているエルメスだった気がするんだ。……なんて書いてあった?」

「うーん、言ってもいいけど……、知っても、キノはどうもしない話だよ? だから、言わないでおこうと思った」

「やっぱりボクの知っているエルメスだ。じゃ、どうぞ」

「やっぱりキノだねえ。――あれはね、大陸間弾道弾を発射させないための鍵だったんだよ」

「“タイリクカンダンドウダン”って、何?」

「うん、そこからだよね」


 キノとエルメスは、ずっと走り続ける。

「すると……、その、町を一つ、いや、国を一つ滅ぼしてしまいそうな長距離大量破壊兵器が、この草原には今も眠っているわけか……。あってる? エルメス」

「その認識でオッケー。上からは見えないだけで、あちこちに地下ミサイル発射基地があるんだ。それを作るために、この道はこんなに、ありえないほど頑丈に舗装されていた。ひょっとしたら、まさにこの道の下にあるのかもね」

「なるほど。そして、“鍵は発射させないため”とはどういう意味?」

「あの石碑には、こんな文章が書いてあった。『もし我が国を滅ぼそうとすれば、我が国は世界中に滅びの矢を――、核弾頭付きの大陸間弾道弾を放つ。この世界は、あまねく十回ほど焼き尽くされるであろう』」

「そんなに燃やさなくても、一回で十分なのに」

「そこ、ツッコむところと違うよキノ」

「まあいいや。続けて」

「文章の続きはこう。『我が国の国民が全員死んだ時、それはこの世界が滅ぶ時だ。ゆめゆめ、忘れるなかれ。これは我が国が持つ、最強の自衛手段である――このことを、常に世界中に隠さず伝え続けよ。そして、自らは決して攻撃することなく、今あるものを大切にし、奪わず、殺さず、ただひたすら、平和に生きよ』」

「なるほどね……。よく分かった。あの国の住人達が持っている鍵、それを石版で捻る人がいなくなった時――」

「すりー、つー、わん。ごごごごご、どかーん。はい、世界は滅びました」

「だからこそ、あの国の人達は毎日必ず捻ってきた。その理由と意味が、あまりにも平和すぎて、または長い時間が経ちすぎて、もしくはその両方の理由から忘れ去られたとしても……。そしてそれが、なくなりつつある」

「そういうこと。だからもし、誰一人として捻る人がいなくなったら、その翌日にこの世界は滅ぶんだよ」

 キノは走り続けた。

「それは確かに、ボクは知ってもどうもしない話だな。あそこで知っていても、言わなかっただろう。今、戻っていないように」

「でしょう?」

 キノは走り続ける。草原の中に真っ直ぐ延びる道はとても走りやすく、アクセルを開けるとエルメスはよどみなく加速して、頬にあたる風がぐっと強くなった。

 キノはアクセルを戻して、燃費のいい巡航速度に落とした。

 そしてエルメスに訊ねる。

「最後までやっている家族は、いつまでやり続けるだろうね?」

 エルメスは答えた。

「ん? だから“最後まで”だよ、キノ」